2014/05/22

荒井良二 / あさになったのでまどをあけますよ


荒井良二さんを知ったのはエンケンさん(遠藤賢司)のアルバム「君にふにゃふにゃ」(2009)を買ってからなので、遅い方だろう。面白い絵を描く人だなあと思って、そう思うと不思議なもので本屋へ行ったり、雑誌を開いたりすると荒井良二さんの絵が次々と飛び込んでくる。そうするとどんどん気になって、読んでみたくなる。いつか子どもが出来たなら荒井良二さんの絵本をたくさん買おうと決めていた。

2011年の終わりに出たこの本は、とても話題になっていて、買うのをずっと我慢していた。(別に我慢する必要ないのだけれど、子どもが出来たら、と決めていたから)買う前から素晴らしい本だろうな、というのはわかっていた。だってタイトルが「あさになったのでまどをあけますよ」なんだから。

めでたく子どもが生まれて絵本をたくさん買うようになって、荒井良二さんの絵本を見つけては買うようになった。「たいようオルガン」もびっくりしたけれど「あさになったのでまどをあけますよ」は最高だった。まどをあけて、新しい1日が始まる喜びを心から感じた。新しい世界を見つけた、と思った。
いや、元々そこにあった美しい世界が見えていなかったのだ、と思った。この絵本には海があり、山があって、太陽があって、雨があって、あなたとわたしがいて、そこに街がある。要するに全てがある。そして荒井良二さんの言葉にはリズムがあって、間があって音楽のように心に響いてくる。最後のページを捲る時なんか何度でもわくわくしてしまう。
ずっと娘の部屋の、窓のそばに置いておきたい。

2014/03/10

オシムの言葉(増補改訂版) / 木村元彦




間もなく開催されるブラジルW杯に唯一初出場する一つの国がある。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナである。
元サッカー日本代表監督「イビチャ・オシム」の祖国だ。
2013.10.15、厳しい予選を勝ち抜いて初出場決めたその日、国中が夜明けまで祝った。
オシムはその歓喜の輪の中心にいた。

オシムがジェフユナイテッド市原・千葉を率いた後、日本代表監督に就任し、脳梗塞で倒れるまで日本のために必死に働いていたことはサッカーファンなら良く知っているけれど、その後どうしているのかを知る人は決して多くはないのではないか。また、ジェフの監督へ就任する前までの半生も。

ボスニアの首都、サラエボでサッカー選手として名を馳せた後、指導者となり旧ユーゴスラビアを90年のW杯イタリア大会でベスト8へ導くが、その後バルカン半島は大戦前と同じ暗い時代に入り、内戦が勃発、ユーゴスラビアは解体され、クロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、後にはマケドニア、セルビア、モンテネグロ、コソボと分裂する。代表監督は辞任。
サラエボは民族間の激しい闘いが繰り広げられ、オシムの家族も巻き込まれる。妻とは2年以上会えない日が続いた。
そんな出来事を乗り越え、それぞれの国が独立し、オシムは日本での仕事を中断を余儀なくされた後、祖国に戻る。
そこで依頼を受けた仕事が政治で腐敗したボスニア・ヘルツェゴヴィナのサッカー協会の再建、「正常化委員会」の委員長だった。

民族間の対立の残る協会は一つに纏まらず国際試合への出場停止命令を受けていた。オシムは脳梗塞の麻痺の残る身体で国中を奔走する。それぞれの民族、政治団体の代表らへ直接へ会いに行き、対話で解決を試みる。国のため、選手のため、ファンのため尽力するその仕事ぶりに感嘆せざるを得ない。

ボスニアがW杯へ出場することがどういうことなのか、この本を読むとオシムの愛した我々日本人にも分かりやすい。日本代表と共に応援しようと思っている。

最後に最も考えさせられた「オシムの言葉」を。

「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。ジェフを応援しているのか。そうでないのか。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向へ導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある」

2014/02/14

冬の本 (夏葉社)


2014.2.14
雪がたくさん降った。日本中降ったらしい。
予定を全て白紙にして家で家族と過ごした。
窓の外では昼過ぎまで雪が降っていた。

ユニコーンの「雪が降る町」という曲が昔から好きで、
雪が降るとついつい口ずさんでしまう。
中でも出だしのフレーズが好きだ。こんな感じで始まる。

だから嫌いだよ こんな日に出かけるの 人がやたら歩いてて 用もないのに

もうすぐ正月の年末で語り手の「僕」は田舎に久しぶりに帰ろうかな、とか彼女のこととか考えながら街の景色を眺めてる。
奥田民生という人は、、と話が逸れるので止めておく。

ぼくも人混みが嫌いで(好きな人はいないだろうけど)、年末年始なんか出来れば本を読んでお酒を飲んで蜜柑を食べて過ごしたい。
「冬の本」の背表紙に「冬は読書」とある。
そうだよ、冬は読書なんだ。布団に潜り込んで文庫本を開いたり、炬燵で雑誌をめくったり、こんな贅沢はそうはない。
「冬の本」はそんな冬と一冊の本に関する記憶や想いを84人の作家や書店員や音楽家や写真家など有名無名を問わず様々な人々が綴っている。
本っていいよね、読書する時間っていいよね、冬って不思議な季節だね、そんな愛情が溢れた本で、読後はいつも暖かい気持ちにさせてくれる。どこから読んでも、どこを読んでも。

2013/12/23

トルーマン・カポーティ / クリスマスの思い出



「遠い日、僕たちは幼く、弱く、そして悪意というものを知らなかった」

以前にも書いたかも知れないけれどカポーティを語る上で欠かせないキーワードに「イノセンス」という言葉がある。

誰にでもある幼少期の美しい記憶、外的世界から身を守るために作り上げた小さな世界、ある場合には仲間になる動物や老人。
多くの人々は成長するに従って、そういった記憶や思いや忘れていくものだが、カポーティは成長したあとでもその思いを忘れなかった、そういう意味ではカポーティは成長しなかった、とこの本を訳した村上春樹は書いている。大雑把に言うとそういうことをあとがきで書いている。

毎年クリスマスが来ると、主人公の7つの少年、そして遠戚のおばあちゃんと彼女の飼っている犬は大忙し。フルーツケーキを焼いて、ツリーを準備して、お互いのプレゼントを用意して。
悪意のない完璧な物語が美しい文章で語られる。また、挿絵にもなっている山本容子さんの素敵な銅版画がこの本の魅力の一つにもなっている。手に取るだけで、ああ、美しい本だな、と言える本はやっぱりある。

こういった物語が世界中で読まれていることは微笑ましいことだと思うし、文学というか芸術の持つ素晴らしい一面だと思う。
そしてクリスマスという多くの人が微笑むこの日には本当に不思議な力があるのだな、と毎年考えたりする。


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2013/11/18

田代一倫 / はまゆりの頃に



写真家、田代一倫が自分と同じ歳だと知ってこの本への興味はますます強くなった。

自分は偶然というべきか転職のため2011年1月に東京を離れ、大阪へ来ていた。
2011年3月11日はずっとテレビを見ていた。その日から見聞きする情報から自分が東京へ行くことはしばらくないだろうと思った。子どもが生まれてからは尚更その思いは強くなった。
しかしながら被災地へ自ら向かう人々もたくさんいる。
写真家もその一人だった。

ここには被災地の悲惨な光景ではなく、そこに暮らす人々の肖像が453点収められている。
皆一様にカメラのレンズに顔を向けている。険しく力強い顔つきの人もいるが笑顔の人が多い。春も夏も秋も冬もただそこで暮らしている人々が撮られている。
テレビや新聞の情報から伝わらない何かが自分の胸に迫ってくる。ページを捲る度にどきどきする。何故だろう。そこに写っている人の背景、服装、持ち物、そして目を見る。そしてまた読み返す。そしてこの二年間を思い返したりしている。

2011年4月に漁師を撮影した際の覚え書きにこうある。

「お前も荷物を降ろすの手伝え!」
・・・支援物資を下ろしている漁師さんに、こう言われました。しかし自分は写真を撮ることを一番に考えるべきではないかと思い、背中に視線を感じながら引き返しました。

きっと撮影の間にこういう場面に出くわすことは何度もあったはず。それでも写真を撮り続けて一人の出版社の方と共に素晴らしい本を創りあげた。出会ったことも、顔も知らない同じ年の写真家に敬意を抱いている。

2013/10/07

ヘレン・バンナーマン / ちびくろ・さんぼ



子どもの頃読んだ記憶のある絵本を3つ選べ、と言われたら「ぐるんぱのようちえん」「ごんぎつね」「ちびくろ・さんぼ」ですかね。次点で「エルマーとりゅう」かな。でもこれは絵本じゃないか。
でもこれらの本はいつしか無くなってしまって、実家の母親に電話で聞いたら「さあ、どこいったのかな」と言われてしまいました。

「ちびくろ・さんぼ」今読んでも面白いですね。トラがぐるぐる回って溶けてバターになってそれをパンケーキにして食べてしまうんだもの。おかあさんのまんぼは27も、おとうさんのじゃんぼは55も、そしてちびくろ・さんぼは169も食べてしまうんだもの。

なんでトラが溶けてバターになるのか(村上春樹は上手くこれを比喩としてある小説で使っていますね)、食べたお皿の数はなにか意味があるのか、考えてもしょうがないんですが、考えると面白い。意味なんてきっとないんでしょうけど。

意味のないものが面白い。わかってしまうと面白くない。もうすぐ2歳になる娘と絵本を読んでいると分かります。仕組みがわかってしまうともう興味がないみたい。娘はこの「ちびくろ・さんぼ」と「そらいろのたね」に夢中です。「そらいろのたね」なんてたねを植えたら家が出てくるんだからもうわけわかんない。どちらもユーモアがあって面白いです。絵本は幾ら読んでもわけわかんないから大人になっても面白いのでしょう、きっと。

この窮屈な社会においては形のあるもの、意味のあるものばかりを求められがちですが、わからないものはわからないでいいと思いますし、軽く笑えるユーモアが足りない気がしますね。でもそれはまた別の話か。

2013/09/16

織田作之助 / 競馬


僕に取ってオダサクと言えば「夫婦善哉」ではなく「競馬」ですね。「六白金星」もいいな。

オダサクは敬愛する先輩、Mさんに教えて貰った。Mさんは以前勤めていた会社の先輩で文学や音楽にやたら詳しくて何でこんなこと知っているんだろうと思う程雑学みたいなものにも詳しかった。
もちろん会ったことはないけれど植草甚一みたいな人だ。

「オダサクええで」とMさんに言われてちくまの短篇集を借りた。
面白かった。
人情モノ、と一言では片付けられない位に文章が上手く引きつけられる。
この作家は結末を決めて一気に書き上げるらしい。
破天荒な主人公たちが一喜一憂しながら転がり落ちるように人生を突き進んでいく。
その転がり落ちるスピードは作者の筆のスピードと比例している。

「競馬」は主人公の教員が酒場の女「一代」に惚れ込み結婚するが実家と縁を切られ、一代は間もなく病気で死に、職を失い、貯金が底を付き、競馬に夢中になる。競馬場で過去に一代と関係を持ったらしい男と出会い嫉妬に駆られ悩み、それでも競馬は一代の一の字をねらって1の番号ばかりを執拗に賭け続ける。何が上手いって競馬のレースと主人公の手に汗握る姿の描写は映画を見ているようだ。
ビールを一杯飲む間に一人の男の強烈な物語を味わえる。

Mさんも「競馬が最高」と言っていた。
Mさんには他にも内田百閒や小島信夫や保坂和志やボネガットやカポーティやたくさんの作家を教えて貰った。
何が言いたいかと言うと、面白い先輩がいると世界が広がる。

2013/08/16

丸谷才一 / 笹まくら


あなたも、戦争について考える日が来るかもしれない。
とりわけ、太平洋戦争や日中戦争や原爆について。
何をきっかけに考えるかは分からない。
「はだしのゲン」かも分からないし、「火垂るの墓」かも知れない。
「戦争と平和」かも知れません。
もしかしたら「永遠のゼロ」かも知れない。
何かの映画かも知れないし、1枚の写真がきっかけになるかも知れない。
あるいは全く別の出来事で考えることになるかも知れない。
でも、それは歴史の教科書ではないと思う。

ある、一つの物語があなたの心に楔を打ち込むと思う。
戦争を起こすのは国であり、宗教であり、主義であり、人であり、それらは全て物語で人がいる限りそこに物語があるから。

「笹まくら」は徴兵忌避者の物語です。5年間全く別の人物に成り代わり、戦争参加を避けてきた人の話です。戦時中、そして戦争が終わって20年後の生活が交錯しながら物語は進みます。主人公の内面描写は見事としか言い用のないもので、流れていく時間と景色に気付くと自分も組み込まれています。
ぼくはこの本をたまたま父親の本棚から借りて読んで以来、戦争について考える時間が増えたように思います。物語が頭に残ったからだと思います。

戦争に関する本はたくさんあります。
たくさん読んで考えてください。
僕もまだまだ読んでみようと思います。

2013/06/21

太田大八 / かさ


親友に子ども(女の子)が生まれたので絵本を贈りました。
私の大好きな絵本で「かさ」という絵本です。

この絵本に言葉はありません。

女の子がお家から赤い傘をさして、お父さんを駅まで迎えに行くお話です。
全編モノクロで描かれていますが、女の子の持つ傘だけが赤く色付けされています。
(モノクロに赤と言えば「シンドラーのリスト」の赤い服を着た女の子を思い浮かべますが、赤という色には何か不思議な力があること感じずにはいられません。口紅は何故赤なのでしょう、花の色は何故赤がまず思い浮かぶのでしょう)

公園を横切り、池の鴨を眺め、友人とすれ違い、橋を渡り、ドーナツ屋さんの前を通り過ぎ、歩道橋を超え、おもちゃ屋さんのショーウインドウで立ち止まり、横断歩道を渡って、お父さんに黒い大きな傘を持っていく。

言葉はありませんが、女の子が歩いて行く様子を見ていると何か心に語りかけてくるものがあります。それは音楽を聴いたり、写真を見たり、絵を見たりして感じる何かと同じものです。

機会があればこれからもこの絵本を誰かに贈りたいと思います。

2013/05/20

山本善行 / 関西赤貧古本道


腹を抱えながら読んだ。
正に抱腹絶倒。
面白すぎる。

今では善行堂の店主として知られる山本善行さんが2004年に書かれたエッセイ。
古本入門、みたいな本は数多あるけれど、こんなに面白い本は読んだことが無いし、これからも無いと思う。
たくさん勉強させられたのだけれど、何よりも、この本の魅力は山本善行さんが古本を好きだという気持ちが一つ一つのページ、文、言葉から溢れていることだと思う。

私はこの本を読んでいる間、ムッシュかまやつの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」が耳から離れなかった。(何故か家にはCD音源が2枚、ドーナツ盤が1枚ある)
ゴロワーズにこんな一節がある。

君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりしたことがあるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでもアンティークの時計でも
どこかの安い バーボン・ウイスキーでも
そうさなにかにこらなくてはだめだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう

読書中、どこからともなくムッシュの声が響いてくる。

古書を探す際の作法(服装から!)に始まり、均一台、絶版、雑誌、古本祭り、東京遠征、オークションまで、古本に纏わるあらゆる事柄が面白おかしく書かれていて、一晩で読み終わってしまった。

古本のみならず、何かに夢中になったことがある人(それがたとえ凄く小さな事でも)は、とても面白く読んで頂けると思う。


2013/04/28

村上春樹 / ねじまき鳥クロニクル


村上春樹の作品で一番好きなものはどれか?
難しい質問ですね。
ビートルズで一番好きなアルバムはどれか選ぶ位難しいです。
「世界の終わり」のときもあれば「ダンス・ダンス・ダンス」のときもある。短編にも幾つか大好きな作品があります。もちろん「1Q84」も好きです。
でも、長い間何度も読み返しているのは「ねじまき鳥」かも知れません。

「ねじまき鳥」の何が僕をこんなに惹きつけたのか。
好きなシーンがあるんです。
3部の、もうクライマックス、というシーンです。
突然消えてしまった妻を何とか取り戻そうと主人公は遂にどこかのホテルの一室で妻(と思われる女性)と暗闇の中で対面します。

彼女は暗闇の中で小さなため息をついた。
「どうして私をそんなに私を取り戻したいの?」
「愛しているからだ」と僕は言った。

結局のところ(春樹さん風に言えば)、この台詞が言いたかったのだ、と僕はずっと考えています。言うのは簡単だけれど伝えるのは難しい。この言葉を伝えるために実に約1000ページを使っています。このシンプルな言葉を伝えたいがために、暴力があり、死があり、性があり、戦争があり、人生で起こりうるようなあらゆる事が怒涛のように主人公にのしかかって来るんです。これは小説家にしか出来ない業ですね。

「愛しなさい」そして「生きなさい」(これはもう一つの非常に重要なテーマだ)と村上さんはずっと言い続けているのだと思うんです。
それっていつの時代にも、どんな人にとっても、大切なことですよね。







2013/04/02

オノ・ヨーコ / グレープフルーツジュース


しばらく、長い間、この本をずっと机に置いていつでも読めるようにしていました。
気づいたら二冊あって、誰かにプレゼントをしました。
誰かは忘れてしまいましたけど。

初めて読んだ時、オノ・ヨーコって凄い!と思いました。
ジョン・レノンが「yes」の文字をルーペで見て雷に打たれた気持ちになったみたいに。

50の詩というか、センテンス、インストラクション、何と言えばいいか分からないですが、言葉が収められています。

僕は次の言葉が好きです。

「心臓のビートを聴きなさい。」

「地球が回る音を聴きなさい。」

「立ち尽くしなさい。 夕暮れの光の中に。 あなたが透明になってしまうまで。 

じゃなければ あなたが眠りに落ちてしまうまで。」

50個全て並べてしまいそうなのでここで止めておきます。

お店を開いたなら、ずっと並べて置きたい一冊なんです。

2013/03/18

保坂和志 / プレーンソング


保坂和志は好きな作家で、おこがましいけれどこんな小説が書けたらいいな、と思っていた時期があった。そして、保坂和志のデビュー作「プレーンソング」の舞台は西武池袋線の中村橋で、僕はその3つ隣の駅に3年ほど住んだことがあって勝手に親近感を持っている。住んでいた時期は全然違うけれど、電車の窓から中村橋の街を眺めながら、あんな生活が出来たらいいな、と時々思った。

主人公が女の子にふられて一人で住むことになってしまった2LDKに写真家を目指しているような男とその彼女と、映画を撮ろうと思って撮っていない男が転がり込んで来て生活する話で、特に何が起こるわけでもない。主人公は猫に餌をやったり、競馬に行ったり、女の子とデートするだけで、物語はこの4人の会話だけで成り立っていく。以後の保坂作品がそうであるように何か特別な事件は一切起こらない。この人はこういうことを考えているのかな、あの人はこういうことを言いたかったのか、こうするとあの人は喜ぶだろう、あんなことがあったな、と日常の思考をただ延々と描き続ける。小説を読む時間はその作品の中に流れているけれど、保坂作品には日常との境界線が希薄でそれが心地よい。
最後にはみんなで海へ行ってボートの上での会話だけが15ページほど続く。誰が喋っているかも分からなくなる。「いいねえ、海って」というのが最後の台詞だ。
楽しかったとかまた行きたいと思った、とかいうノスタルジアは一切ない。ただ、時間が波のように流れていく。

そして僕は何も起こらない哲学的な小説を書いてきた保坂さんがこれから何を書いて行くのか、とても楽しみにしている。

2013/02/25

田中慎弥 / 第三紀層の魚



「共喰い」を文庫で読んだ。芥川賞受賞作だけあって面白かった。でも僕は一緒に収録されている「第三紀層の魚」を読んで一気にこの作家を好きになってしまった。

衰弱していく曽祖父に「チヌ」を見せるため海釣りへ通う少年、戦争と自殺した息子の影を背負う曽祖父、曽祖父を介護する祖母、夫を病気で亡くし一人で少年を育てるため懸命にうどん店で働く母親、関門海峡のある町での物語。描写が抜群に上手くて、海や魚の匂い、介護や葬式の風景、親子の会話が目の前を通り過ぎていく。更に方言が土の匂いを運んでくる。

子供の頃、大人の涙や会話の意味を良く理解出来ないことがあった。そして自分が何故泣いているのかを。そんなことってなかったですか?

少年は曽祖父の死後、一人で海へ行き、関わりを持ちたくなかったよく見かける鼻の潰れた男に助けられながら、大きな「コチ」を釣る。そしてその場でわけもわからず泣きだしてしまう。曽祖父のこと、東京へ引っ越すこと、苗字が変わるかも知れないこと、男に助けれられたこと、塾のこと、あらゆる理由を考えながら涙が落ちる。この場面は、目頭が熱くなった。
是非読んで欲しい。

古典的な名作になって教科書にも載せて欲しいなと思った。

文庫版に収録されている寂聴さんとの対談で芥川は好きじゃないけど、「トロッコ」は好きと言っていたのに凄く納得した。

2013/02/01

レイモンド・カーヴァー / 象


 レイモンド・カーヴァーの「象」は「ささやかだけれど、役に立つこと」や「大聖堂」と並んでカーヴァーの中でも最も好きな作品。何というか、小説っていいなと思わせてくれる小説。日本で言うとやはり志賀直哉の短編を思わせるのかも知れない。

 この「象」という短編に所謂動物の「象」は出てこない。借金まみれの家族と老後の母親を助けるために朝から夜まで働き続けているある孤独な男の物語だ。社会の片隅で孤独や哀しみと向かい合い暮らす人々を描いてきたカーヴァーの代表作と言えるだろう。破産してしまった弟、大学で遊び呆ける息子、どうしようもない男とくっついてしまった娘、養育費を送金している別れた女房、毎月の仕送りなしでは暮らしていけない遠く離れた母親、身を粉にして働き続ける主人公の僕。救いのない、終着点の見えない、物語。

 だが、「僕」はある晩夢を見る。僕は五歳か六歳でまだ生きていた父親に肩車をしてもらっている。簡潔に引用する。
 「さあ、ここに乗れよ、と父さんが言った。そして僕の両手をつかんでひょいと肩にかつぎあげた。僕は地上高く上げられたが、怖くはなかった。父さんは僕をしっかりとつかまえていた。~僕は両手を放し、横に広げた。そしてバランスを取るためにずっとそのままの格好でいた。父さんは僕を肩車したまま歩き続けた。僕は象に乗っているつもりだった」
 夢はこの後覚める。次の日は夏のとても気持ちの良い日で、「僕」は通勤途中にふと立ち止まって両手を広げる。

 救いようのない物語だが、何か心にずっしりと残るものがある。余韻ではない。記憶を突き動かす「何か」。

 いつか僕もこういう夢を見るのだろうか。肩車をしてもらった記憶はあるけれど、いつか全く思い出せない。風景も背景も思い出せない。

 何が言いたいかと言うと、、、、、小説っていいですよね。

 「象」は中央公論新社から出ている全集をはじめ、村上春樹訳の幾つかの作品に掲載されいます。

2013/01/13

村上春樹 / 5月の海岸線


 初めて読んだ時よりも、数年後になって大きな意味や違った感触が浮かび上がってくる本がある。それも読書の喜びの一つだろう。

 僕の実家は神戸の西の端の海の近くにある。駅のホームに立つと時折風が潮の香りを運んでくる。子供の頃は夏休みになると実家へ帰り、歩いて海水浴へ向かった。綺麗な海では無かったけれど、子供の頃はそんなこと気にならなかった。海へ潜っては魚を探し、砂浜を歩いては貝殻を拾った。その砂浜は今はもう無い。海は埋め立てられ、巨大なショッピングセンターが建っている。海沿いを走る国道は週末になると渋滞になる。恐らく日本中でこういう風景が見られるのだろう。

 村上春樹の短篇集「カンガルー日和」に「5月の海岸線」という短編がある。(恐らく)極めて私的な小説で、主人公は10年ぶりに郷里の海のある街へ帰り、失われた海岸線を目の当たりにし、過去を回想する。海岸線は山を切り崩した砂で埋められ、その上には高層マンションが墓標のように立ち並んでいる。著者も神戸の側の海のある街の出身だ。村上さんはこの小説を80年代初頭に発表している。僕が初めて読んだのは確か90年代後半。その時は、「そうか、そういう風に時代が移り変わって、自分も大人になると過去を懐かしんだりするんだろうな」と思った程度だった。けれど、そんな簡単な問題ではなかった。

 今読んでみると恐ろしく暗い小説だ。そして著者の怒りが如実に表に出てきている。ただの回想録で終わらないのはある「死」が物語に深みを与えているからだろう。そして主人公は「予言」をする。その遠く押しやられた海岸線と墓標を眺め、「君たちはいつか崩れ去るだろう」と。

 「予言」は80年代を過ぎ、90年代を過ぎて、2010年を過ぎても生き続けていた。失ってしまったものは、自然だけではない。ここに書かれている「魂」のようなものも失ってしまう。

 

2013/01/07

つげ義春 / 紅い花


 つげ義春の短編「紅い花」を読んだ時、こんな漫画があるんだと天地がひっくり返るほど驚いた。今までに読んだどんな漫画ともつげ義春の漫画は違う世界を描いていた。

 「紅い花」は思春期を迎え身体の異変に気付く少女とそれを不思議そうに見守る少年の優しい心を描いた名作だ。少女の身体と川を流れる大きな紅い花が絶妙に狂おしく絡んでくる。

 後日、早川義夫さんの本を読んでいたら、早川さんが本屋をやっていた頃ブックカバーにこの「紅い花」の最後のシーンを使っていると知って嬉しかった。
 
 何故なら僕はつげさんの漫画も早川さんの音楽や文章も大好きだったから。

2013/01/04

マイルス・デイビス自叙伝


和歌山県の白浜町にとても美味しいサラダとピザ、それに美味しいお酒を出しているお店があって、その店のトイレに額に入れられたマイルスの写真が飾ってある。大型の生写真で、1969年のニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した際のものらしい。激動の時代だ。アメリカの社会も音楽シーンも。この時代にマイルスは物凄いアルバムを幾つも作った。「イン・ア・サイレント・ウェイ」「ビッチェズ・ブリュー」などなど。大きな眼鏡をかけ、マイルスは客席を真っ直ぐ見つめている。その誇りと自信に溢れた顔を見ていると胸が熱くなり、背筋が伸びてくる。この自叙伝を読んだ時と同じ感覚だ。

マイルス自らがその波瀾万丈の人生を語り尽くした本で、ジャズに夢中になっていた頃に読んだ。以来何度も読み返している。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーに対する憧れ、コルトレーンやトニー・ウィリアムス、ウェイン・ショーターをはじめとするバンド仲間たちとの出会い、モンクやミンガスとの喧嘩、ジャズの枠を超えたジミ・ヘンドリックス、プリンスとの邂逅。そして多くのミュージシャンとの死別。その裏側で語られる人種差別やクスリ漬けの日々、多くの女性との恋といった数々のドラマ。マイルスが送った人生の全てが記されている。中山康樹さんの訳も絶妙でぐいぐい引きこまれ、マイスルのもつエネルギーが指先から伝わる名著だ。

マイルスは過去を振り返らず(ただし思い出は大切にした)、その音楽は進化を続け(ビル・エヴァンスという白人のピアニストに出会った時、黒だろうが白だろうが黄だろうが赤だろうが素晴らしい音楽を奏でるならどんな人間でも構わない、と断言している。)、自分を信じて突き進んだ。何度もダメになりそうな度に自分を励まし、素晴らしい音楽を純粋に追求した。マイルスが残した音楽は人類が残した唯一無二の遺産と言ってもよいものだと思う。

新年早々にその写真を見て、身が引き締まる思いだ。
お前は何をやりたいんだ?そのために努力をしているのか?そう問われている気がした。


2012/12/25

コーマック・マッカーシー / ザ・ロード


冬は冷たく、暗い、孤独の季節だ。「冬の本」と言えば、世紀末の世界をただ南へと漂流するこの父と息子の物語を思い浮かべる。読後、冷たい風の中を家路に着いたように喉がカラカラになったのを覚えている。

作者のコーマック・マッカーシーはこの作品でピュリッツァー賞を受賞した。アメリカを代表する現代の文豪だ。日本でもヒットした「ノー・カントリー」(血と暴力の国)の原作者と言えば知っているかも知れない。

物語の舞台は滅亡の一途を辿っている。何かが原因で(恐らく核戦争)世界は分厚い雲に覆われ、太陽は姿を消し、気温は下がり続け、灰が降り積もる。動物も植物もほとんど見られない。生き残った人々は食べ物を巡って殺戮、略奪の限りを尽くし、飢えに耐えかね人肉食にまで堕ちる。
そんな世界を父と息子がただひたすら一つの道をショッピングカートを押して進んでいく。銃を手にして。

父は彼、息子は少年、として三人称で描かれる。物語の始まりは優しさと温もりで溢れている。

「森の夜の闇と寒さの中で目を醒ますと彼はいつも手を伸ばしてかたわらで眠る子供に触れた。~彼の手はかけがえないのない息に合わせて柔らかく上下した」

心理描写は全くなく、彼と少年の会話だけが物語に深みを与えている、会話に鍵括弧は無い。

それなに、パパ?
網笠茸。網笠茸だ。
あみがさたけって?
キノコだよ。
食べられるの?
ああ。齧ってごらん。
おいしい?
いいから齧ってごらん。

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もう死ぬと思っているだろう。
わかんない。
死にはしないよ。
わかった。
でも信じてないな。
わかんない。
なぜもう死ぬと思うんだ?
わかんない。
そのわかんないというのはよせ。
わかった。
なぜもう死ぬと思うんだ。
食べ物がないから。
今に見つけるよ。
人間は食べ物なしでどれくらい生きられると思う?
わかんない。
わからなくてもどれくらいだと思う?
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こういった世界にあって、二人だけが人間らしさを失っていない。
水だけを口にしながらも何故か少年だけは生命力に満ち溢れている。
それは彼にとっても、僕にとっても、全ての読者にとって少年が希望に見えるからだと思う。
日本もアメリカも、大きな転換期を迎えているけれど、希望に目を向ければ進む道は分り易いと思うのだが、どうだろう。



2012/12/07

ニック・ホーンビィ / ハイ・フィデリティ


 もうすぐつかまり立ちを始めそうな娘が危ないということで部屋を模様替えすることになった。レコードと本の山を整理することになって文庫を片付けていたらこの本が出てきた。思わずページを捲ってしまってニヤニヤしながら読んだ。ジョン・キューザックの映画が最高だったので知っている方も多いと思う。原作を読んでから映画を見るとゲンナリしてしまうものだが、この映画は良かった。最高だった。ジャック・ブラックが最高だ。レコード屋の店主の恋愛ヒストリーが語られるだけなのだが何故こんなにおもしろいのだろう。

 物語はこんな風に始まる。
「無人島に持っていく5枚のレコード、ていう感じでこれまでの別れのトップ・ファイブを年代順にあげれば次のようになる。(1.2.3.4.5と女性の名前が続く)ほんとうにつらかったのは、この五人だ。ここに君の名前があると思ったのかい、ローラ?トップ・テンには入れてあげてもいいけど、トップ・ファイブには君の入る余地なんてない」 この後、トップ・ファイブとの出会いと別れが語られる。そして今、ローラと向き合うことになって本題へ入っていく。

 どうでも良いことだし、女性に失礼な文で始まるが、何となく引きこまれてしまう。ニヤニヤしながら。主人公はチャンピオンシップ・ヴァイナルというレコード屋の店主で、所謂音楽ジャンキーだ。ソウルとパンクを愛している。店にはバリーとディックという音楽馬鹿の二人のバイトがいて、週三日しか雇っていないのだが勝手に毎日やってくる。バリーは毎日クラッシュを口ずさみながら店に入り、客を選び、客に強引に自分のお薦めを買わせてしまう狂った店員だ。古今東西有名無名のアーティストがやたら出てくる。
 
 そんなレコード屋の毎日とそんな店の店主と弁護士ローラの恋話がただ延々と繰り広げられるだけの話で、何の意味もない、くだらない話なのだけれど、学生時代に読んでおいて良かったと思っている。ポップ・カルチャーは意味もなく、くだらない。ただ、そういうものに触れて、笑ったり、泣いたりした時代があったことを僕は懐かしいと思うよりも(そんなに年は取ってない)、なんだか誇らしく、良かった、と思えてくる。

 

2012/11/26

曽我部恵一 / 昨日・今日・明日 / 虹を見たかい?


よくある質問であなたに最も影響を与えた人は誰ですか?という質問。もしくはそんな類の質問。
誰か一人に絞るのは難しい。
でも、すぐに思い浮かぶのは曽我部恵一さんということになる。し、そんな会話になればだいたいそのように答えている気がする。もう15年以上、曽我部恵一氏の動向に注目し、曽我部恵一氏の音楽を聴き続け、サニーデイ・サービスの音楽を聴き続けている。
神戸の片隅の高校ではサニーデイの音楽を誰も知らなかった。と、思う。誰にも言わずに僕は電車から海を眺めながら「愛と笑いの夜」を聞き続けていた。
幾つかの素晴らしいアルバムを発表し、バンドは解散し、曽我部恵一氏は家庭を持ち、レーベルを立ち上げ、独立した。僕はバンドのアルバムを聴き続けながら大学を卒業し、成人し、CDショップへ就職した。

バンドが解散すると、幾人かのファンは離れていったが僕は彼の音楽を聴き続けた。音は変わり、散文的で、都会の空気を吸い込んだ、松本隆のような言葉は消えたが、彼の魂のような、真実だけが胸の中から抉り取られたような言葉が飛び出してきた。ラッパーになっていたかも知れないというほど、彼の言葉への執念は凄い。膨大な数のLIVEをこなし、音源が溢れるように発売される。顔つきも違う。昔からのファンと新しいファンを獲得し、今なお躍動し続けている。
僕もいつの間にか家庭を持ち、何か導かれるように中途半端な本屋を立ち上げた。
大げさに言えば曽我部恵一氏の音楽が血となり、肉となり、曽我部恵一氏が今なお精力的に活動していることが僕に元気をくれる。

ここにある二冊のエッセイにはそんな彼の人生が詰まっている。ひとつ「昨日・今日・明日」は1999年、(MUGENを発表したころ)、もう一つ「虹を見たかい?」はその8年後に刊行されている。何を見て、何を聞き、何を思ってきたのか。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、寂しいこと。ご本人もこれは人生の本、と書いておられる。
この本からたくさんの事を学んだ。もちろん音楽も映画もたくさん教えてもらった。何でもない毎日の事が書かれているのだけれど、何でもない毎日がいかに大切なことか。

時々立ち止まっては読む、そんな大切な本。

2012/11/19

井上雄彦 / バガボンド

バガボンドが再開しました。ずっと楽しみにしていました。
どんな展開になるのか予想も出来なかったのですが、期待通り面白かったです。わくわくしました。

伊織という少年と泥だらけになって畑を耕すシーンが出てきます。(とにかくこの34巻は土とか泥とかのシーンがやたら多い) 耕しては雨で崩れて耕して、それだけのシーンがしばらく続く。頭や目で読むというよりも身体で読んでいるような感覚になりました。

井上さんは「SWITCH」のインタビューで物語にはあまり興味がない、と言っています。スラムダンクでさえ、ただいい試合を描きたい、いいプレイを描きたい、みたいなことを仰ってました。宮本武蔵、という人の在り方を描きたい、物語というよりは詩に近いと思う、と。ほとんど即興に近い感覚で描いているんだろうな、と僕は思いました。
モードジャズみたいだ、と思ったのです。基本の筋(物語)はあるけれど、ちゃんとそこへ戻ってくるならどこへ行っても、自由にやってもいいよ、みたいな。「絵」にこだわっているのは一目瞭然だし、本人も公言しておられるから、ストーリーやセリフよりもまず「絵」が飛び込んでくる。セリフを目で追うよりも「絵」を一枚一枚めくっているような感覚になるのでどうしても音楽のように身体的なリズムが出てくる。だから僕はわくわくしているのだと思います。「絵」だけはもう自由に本当に楽しそうに描いている。その楽しさが伝わるから余計わくわくする。同時に「命」を扱う漫画なので更にずっしりと心に響く。巌流島まで描くのか、いつ終わるか分からないけれど、重石のように心に残る作品になりそうです。

僕はガチガチのジャンプ世代ですが、井上雄彦さんと荒木飛呂彦さんだけは小学校から今でもコミックを楽しみにしています。

2012/11/05

村上龍 / 限りなく透明に近いブルー


小説を読むことの面白さを知ったのは何の本だったかと考えていたらこの本に行き着いた。
初めて読んだのは高1か高2だったと思う。
中学の終わり頃からだんだん読書が好きになっていった。最初は母親の影響で「三銃士」とか「ロビンソン・クルーソー」とか「ジュラシック・パーク」とか「フォレスト・ガンプ」なんかを読んでいたと思う。家にあったものを適当に読んでいた。

高校は全く面白くなくて授業中は小説か漫画ばかり読んでいた。当然の成り行きと言うべきか、村上春樹に出会い、村上龍に出会う。辻仁成なんかも良く読んでいた。「ノルウェイの森」は大好きな小説だったし、今では村上春樹は僕にとっても特別な作家だけれど、本当の意味で小説の面白さ、読書の喜びを教えてくれたのは村上龍だったと思う。「コインロッカーベイビーズ」「海の向こうで戦争が始まる」「ポップアートのある部屋」「トパーズ」「村上龍料理小説集」etc
その中でも「限りなく透明に近いブルー」がたまらなく好きだった。

破滅的な登場人物たち、過激な性描写、ドラッグ、ドアーズにストーンズ、ストーリーよりもその詩的イメージに僕は魅了された。村上龍はいつも怒りながら優しい文章を書いている。その文体は多くの人が認めるように天才的と言っていい。「現存する作家の中では、文章に関しては最大の天才と言えるでしょう」と高橋源一郎はある著作の中で言っている。僕もそう思う。きっと凄いスピードで文章を書くんだろうなと思う。
それはさておき、毎晩適当にページを開いて読んでは眠る日々があった。20代になってからもあった。いつも主人公がリリーに話しかける様子を見ていた。それはいつも限りなくイノセントなイメージを僕に与えてくれた。自伝的小説とは言え、著者があとがきで女の子に手紙を書いているのも何故かセンチメンタリズムを軽く通り越しているようでかっこよかった。

そんなわけで今でも膨大な量の書籍を出し続けているけれど、新作の小説が出るとわくわくする。

2012/10/01

内田樹 / 街場の文体論


この本を読んで泣いた、という人がいて僕はまさか、と思っていました。
この本を読み終えるまでは。
文体論の本で、「クリエイティブ・ライティング」と呼ばれる授業をまとめた本で、何故涙を流すのか。まさか、と思っていました。

しかし僕は泣いたのです。この本の最後の授業は「リーダビリティと地下室」というテーマで最後の項は「言葉の魂からくるもの」というものでした。ここでは村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチが引用されていました。村上春樹の熱心な読書ならお分かりでしょうがここで引用されているのは有名な「卵と壁」の部分ではなく彼の死んだ父親の話です。僕も著者と同じように驚きました。村上春樹が家族、しかも父親について話すことは極めて稀だったからです。ここではとても書き切れませんが、父親は徴兵され中国へ送られた。前後生まれた村上春樹は毎日仏壇の前で手を合わせ祈る父親へ尋ねます。「なぜ祈るのかと」「戦場で死んだ人々のために祈っているのだ」と父は息子に教えます。そして父は息子の知らない記憶を持ち去っていく。

この本を読み終える日の朝、たまたま、本当に偶然に、村上春樹が朝日新聞へ中国との領土問題について寄稿した。文化交流に影響を及ぼす事を憂い、「国境を超えて魂が行き来する道筋を塞いではならない」と書いています。
村上春樹と文体論にどういう関係があるの?と聞かないでください。

ただ、僕はこの時「言葉の魂からくるもの」というのを「理解」しました。この本を読んでから、もう一度朝日新聞を読んだ時、著者の言う「届く言葉=言葉を届かせたいという熱意」「襟首をつかまれて、頼む、わかれ、わかってくれ」と身体をがたがた揺さぶられるような感じ、というのが理解出来た。著者の言うように脳ではなく、皮膚で理解出来た。
著者は言う『僕らの身体の中にあって、言葉や思想を紡いでいく基本にあるものはかたちあるものではない。~言葉というのは、「言葉にならないもの」を言わば母胎として生成してくる。それをソウルと言ってもいい』
そのような言葉だけが他者に届く。
魂の継承を理解し、著者と村上春樹の言葉が「届いた」から僕は泣いたのだと思います。

言葉を届けることは本当に難しい。でもこの本を読んでまた少し言葉について理解出来ました。他にも教育、子育て(子どもを育てることを損得勘定で考えてしまう社会)、お金について言及しています。著者の本はとにかく読み易い。難しい単語も幾つも出てきますが、それでもぐいぐい読ませる。何かモヤモヤして生きづらい社会だなと思っていたら少しスッキリするかも知れません。

2012/09/14

堀江敏幸 / ボトルシップを燃やす(おぱらばんより)

堀江敏幸の初期の作品に「ボトルシップを燃やす」という作品があります。
少年の私が高台にある三階建の廃墟に友人Nと忍び込むという話です。今は廃墟となってしまったその建物の三階バルコニーで大きく風を孕んだシーツ。そのバルコニーへどうしても行きたかった私はNの誘いに乗ります。かつては喫茶店だったその建物の中で見つけた大量のマッチ箱とボトルシップ。私はこの綺麗なボトルシップを持ち帰ろうかと思案します。物語はシベリア極東の猟師の物語アルセニエフ「デルス・ウザーラ」とリンクしていきます。

軍事調査と地理測量に果てしなく広がるタイガを訪れたアルセニエフとその道案内を請け負ったデルス。二人の友情とやがて訪れるデルスの死。私は廃墟でのNとの短い共同作業と彼の死を思い浮かべる。

ぼくが心を惹かれたのはその共同作業、廃墟での出来事です。地下の車庫へ大量のマッチ箱を持ち込んだNは中身をばらまいてマッチの先端を重ね合わせ砦を築いていく。手伝ってくれと私は言われ、二人は黙々と貝塚を作り上げていく。やがてNが火を放ち暗闇のなかでマッチの火が燃え上がる。炎が下火になるとNは階上からボトルシップを運び込み、今度はこれを燃やそうと言う。
「燃やすってなにを?」
「船さ、船を燃やすんだ」

暗闇で火をつける、という行為にぼくは心惹かれるようです。太古の昔からある暗闇と火。果てしなく想像が広がります。暗闇自体、境界のないものだからでしょうか。火を崇める宗教も少なくないようですが、なんとなくわかる気もします。ゆらゆらと不安定に揺らめく炎。アルセニエフとデルスが見ていた果てしなく広がる森林と野営の火。「ボトルシップを燃やす」は短編ですがまるで長編小説のような広がりと奥深さをぼくには想像させました。この話は終わりなく、暗闇の中をどこまでも海のように広がっているのではないか。

燃やす、という事では同じく村上春樹の「アイロンのある風景」という短編を思い浮かべます。こちらは誰もいない冬の海岸で老人と女が焚き火を燃やす物語です。ここでもジャック・ロンドンの小説が重要な要素として出てきます。そして二人は死について語る。海岸で焚き火を燃やすただそれだけの話しですが、暗闇と海というものが物語りに深みを与える。
暗闇で火を灯すという行為は人間にとって何かとても重要なことではないか、今そんなことさえ思いました。

誰もいない網走の海岸で友人と焚き火をしたことがあったけれど、あれは確かに忘れられない思い出です。

2012/08/22

トルーマン・カポーティ / 夜の樹


村上春樹の「サラダ好きのライオン」を読んでいると久々にこの文句に出会ったので、カポーティを読み直した。僕はカポーティが大好きなんです(ただ、ティファニーで朝食を、だけは良く分からない。その内分かる日が来るんだろうか)。その文句とはこちらです。
「何も考えまい。ただ風のことだけを考えていよう。」 有名ですね。恐らく。村上春樹氏もこの文句からデビュー作「風の歌を聴け」というタイトルを頂いたと述べられている。

 この文句は「最後の扉を閉めて」という短編の最後のセンテンスになっている。改めて読んでみると、本当に孤独な小説だ。もう孤独な人を究極に追い詰めている。世界中の人々に愛されるように文章はため息が出るほど本当に美しいけれど、こんなにたくさんの孤独を書く作家は恐らく他にいない。その孤独には夜のように深い闇の孤独があり、氷のような冷たい孤独がある。この人の物語を読んでいると実際に孤独という物体に触れているような気がしてくる。

 20代の時に出会って良かった。10代で読んでいたら窒息していたかも知れないと今更思ってしまった。

 でも今は、孤独な話だなあと思いながらも、その文章の美しさに心を奪われてしまう。何故だろう。家族を持って孤独に興味を失ったからかも知れない。今、孤独を書き切る作家はあまりいないのではないでしょうか。どうなんだろう。愛や孤独は語りつくされた気がする。そんな事を思いながら、書きながら、孤独ってなんだ、とまた思考がぐらぐらと揺れている。

 この「夜の樹」という短編集はタイトル作品はもちろんの事、「ミリアム」「誕生日の子供たち」など有名な素晴らしい作品が収められていてお勧めです。眠る前に読むと寂しい気持ちになれます。

2012/08/21

田中康夫 / 神戸震災日記


 古本屋さんで¥105-で購入した。たまたま目に付いてそのままパラパラとめくってからそのままレジへ持っていった。以前から探していたわけではない。なんとなくその時出会ったから買った。古本屋さんにはこういうふとした出会いみたいな楽しみがある。

 目に付いたのは一応理由がある。僕は神戸出身でこの震災により実家は半壊した。神戸の垂水区という所で淡路は目と鼻の先だ。ただ、僕はその地震を体験していない。僕はその時栃木県にいた。15歳の多感な頃で高校受験を控えていた。その日の朝は良く覚えている。いつも通り目が覚めて朝ごはんを食べようと階段を下りていくと父親と母親がTVに釘付けになり、「電話が繋がらへん」と右往左往していた。

 その1月17日の4日後に著者は大阪に降り立ちその足で50ccのバイクを買い求め被災地へ入る。著者は何度も自分に問いかける、「自分一人に何が出来るのか?いや、出来ることを出来る範囲でやっていこう」と。「自分には何が出来るのかという問いかけ」が必要なのだと著者は言う。
TVでは伝わらない現場での出来事が生々しく現実の空気を纏って日記に綴られていく。1.17の出来事を忘れないためにもこの本は読み継がれて欲しい。

 また、別の意味でもこれは忘れてはならないと思う所があった。当時虚しいお題目が起こった。「今度は震度7でも耐えられる新幹線や高速道路を作れ」
このお題目に対し、著者は「自然を冒涜しているし、人間をも冒涜している」と痛烈に批判している。この出来事と全く同じ出来事を今、福井県で目の当たりにしている。

 1.17からその後も世界中で様々な出来事が起こりながらも、時代は良くなっていると信じている自分の思いと国は変わらないのかという落胆の思いが入り混じった。


2012/07/31

伊藤整 / 近代日本の文学史


とても面白く読んだ。面白くてあっという間に読み終わってしまった。文学好きにはたまらない一冊だ。良質な本を出版している夏葉社さんより。

あれも読んでない、これも読んでない、知らない作家だな、そんな背景があったのか、と驚きと発見の連続だ。勉強にもなる。読書は学ぶことで、学ぶことは面白いと思うことだから、大変面白い一冊だと思う。

僕は音楽が大好きだから、所謂ディスクガイドみたいなものが出るとついつい買ってしまう。ロック名盤、レアグルーヴ探検、アンビエントガイド、jazzガイド、等など毎年のように出ているけれど、ある時期は端から端まで買っていた。あれ聴いてない、これ聴いてない、このジャケット素敵だな、これ何年の作品なのか、これあのレーベルか、みたいに終わりがない。レコードは魔物だ。

この本は僕の中でこういったディスクガイドのような楽しみ方も出来た。
でも、当然ディスクガイドとは違う。

この本は伊藤整という一人の小説家であり批評家が歴史と時代背景を追いながら近代日本の文学の形成を簡潔にかつ分かりやすい様に描かれている。簡潔だが明治から昭和初期までの怒涛のような時代だから当然「熱」を帯びている。どんなに簡潔な文章で綴られ、明晰な分析が行われていてもその「熱」を感じられるからまた面白い。

自然主義発生後の「永井荷風」の出現についてこう書いている。
「~とつぜん、若々しい情感と詩的なイメージとを使った若い作家が出現して、曇天の風景の中にとつぜん太陽が輝きだすのを見る感じを人々に与えた」
文学史を語る中でこんな風に比喩を使っている箇所は少なく、著者が興奮しているのが分かる。僕は笑顔で読んだ。
「永井荷風」と「谷崎潤一郎」は頻繁に出てくる。やはり長く生き、昭和初期を生き抜いたのは大きな事なんだな、と改めて感じた。
大好きな志賀直哉が多くの作家に慕われているのも改めてわかり嬉しかった。
それにしても、当然というべきか「異性」の存在が作家の運命を握っている例が多い。少なくない人が相手のために死んでいく。現在はそういう例が少ないみたいだけれど、時代の流れというものなのか。
また、漱石の扱いが小さくないか、などと感想が尽きない。

とりあえず、この本を持って本屋さんへ行こうと思う。正に「必携」。
そしてほとんど知らなかった「横光利一」を読んでみようと思う。



2012/07/24

清水玲奈 / 世界の夢の本屋さん


京都のレコード/CD屋に勤めていた頃、本好きの先輩がいて、「恵文社」を教えて貰いました。
一乗寺というところにええ本屋さんがあるで、電車やとちょっと行きにくいけどな、と。
僕は神戸の人間なので当時は京都のお店についてほとんど知りませんでした。

ある休みの日に神戸から電車に乗って訪ねました。
ほんまにええ本屋さんやなあ、と思いました。
広すぎず、狭すぎず、興味をそそる本が多すぎず、少なすぎず丁寧に並べられていました。
一冊一冊きちんと仕入れているんだろうな、と思いました。

一言で言えばその空間と品揃えには夢が詰まっていました。

この素晴らしい「世界の夢の本屋さん」、第二弾には日本の本屋さんも載ると分かった時は「恵文社」絶対載るやろなと思っていました。

デザイン、レイアウトも綺麗で、世界中の本屋さんの声が聞けるのも読み応えがあります。
本棚に置いても、部屋に飾っても見栄えがします。

色んな意味で僕に取って夢が詰まった本なのです。

ちなみに僕が今一番行ってみたいのはここに掲載されている松江の「artos books store」さんです。


ミヒャエル・エンデ / モモ


 「忙しい、というのは心を失う、ということなんだよ」
この本を読んで思い出したのはこの言葉です。
どこで誰から聞いたのか僕は思い出せません。あるいは本で読んだのかもしれません。

ある日、実家の妹の本棚から「モモ」を失敬しました。手元には愛蔵版もあります。(これは友人から頂きました)
時間に追われ、お金を追いかけていくとどうなってしまうのか、童話という形式を取って描かれています。(時間を銀行に貯蓄する、というお話になっている以上、お金も恐らくこの本では重要なテーマだと思います)

多くの絵本や童話というのは大人にも読まれるべきものだと思うけれど、この本は正にそういった本の代表作と言っていいと思います。
読み継がれていく本というものはいつの時代にも通じるテーマがあり、何よりも人間の本質を抉り出しているものだと思います。そこには人間の素晴らしさと愚かしさが同居している。

子供たちがそうであるように、初めから全ての人間がここに描かれている「灰色の人間」ではないですよね。「何か」に心を支配され、色を失っていくものです。

あとがきで作者(あとがきにおいてこの物語はひとから聞いたと言っていますが、ここでは触れません)が鋭いことを言っています。

「わたしはいまの話を、過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きな違いはありません」

この物語は1973年に発表されています。

現代において、多くの人が感じているように僕も簡単な言葉で言ってしまえば、「幸せ」について考えています。
「モモ」がそうであるように人の心に耳を傾け、価値観に縛られず、少しの勇気があればそれに近づくことが出来るのかもしれない。
そういったことを「考えさせてくれる」この本は素晴らしい本だと思います。

2012/06/18

芥川龍之介 / 蜜柑



何度も読み返している小説の一つに芥川龍之介の「蜜柑」があります。
とりわけ、この素晴らしい「ちくま日本文学全集」の芥川龍之介を心斎橋の古本屋さんで買ってからは何度も読みました。


短いけれど、日常に誰もが感じた事のある疲れ、気付き、喜びを分かり易く書いたものです。
二十歳を過ぎた頃、難しいことを考える事はない、こういった小説を書きたい、書けばいいのだ、と僕は思ったのです。今も思うことがあります。
日常をこの蜜柑の様に一瞬でも暖かく彩ってくれる小説を届けたい、と。


最後のセンテンスが好きです。
「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである」


帰宅途中や、眠る前に、この小説の風景を思い浮かべます。少女の手を離れ、汽車の窓から子供たちの頭上へばらばらとこぼれ落ちていく日の色に染まった蜜柑を。
そして少し暖かい気持ちになります。
小説が僕の身体に血となって流れているのを感じます。
だから、本を読むことは辞められません。

2012/06/08

植本一子 / 働けECD

ラッパー「ECD」の奥様であり写真家、植本一子さんの育児(混沌)記です。
帯にはこう書かれています。
「月給16万5千、家賃11万、家族4人(と猫3匹)、生活してこれたのが不思議でしょうがない」
もともとECDの本が好きだったし、僕も子供が出来て簡単な家計簿を付けるようになったから手にとってみたのです。
そして僕もこの帯の文言に少し近い生活をしている。そしてそれを僕は恥ずかしい事だとは思っていない。そしてもちろんこの本にはそんな事に一言も触れていない。そんな本は面白くもなんともないですからね。

この本に収められた育児記は2010/2/11に始まり、2011/4/19に終わっています。各日付には家計簿が添えられています。電気代、食料、猫エサ、缶コーヒー、散髪代、ふりかけ、アイス、バス代、などなど日常が細かに刻まれていきます。やはりラッパーだけあって、レコード、CDの出費が凄まじい。僕も自慢では無いですがかなり音楽にはお金を掛けるほうです。しかしそれを生業にしている人とは比較にならない。

始まりはコーラ飲みすぎ、今日もレコード買ってる!など微笑ましい内容が多いのですが、日記が進むにつれ、一子さんの主に夫や家族、友人、周りの人々への気持ちがかなり赤裸々に綴られてくるようになります。ただの家計簿ではない。感謝、怒り、悲しみ、喜び、親への複雑な感情。そこには「生きている」という事実がはっきりと刻まれている。
そして僕は毎日どたばたと喜びと悲しみを背負ってこんな風に生きている家族が世界中にたくさんいるんだよな、と思いを馳せます。僕の隣に住む家族も、上に住む足音がバタバタうるさい家族もきっといろんな物を背負っているんだろうなと想像します。

やがて東京のど真ん中で3.11を迎え混沌に飲み込まれていく家族。そこではいかに「家族」や「友人」との絆が大切なのかに気付かされる。この部分は是非買って読んで頂きたいと思います。

あとがきのタイトルは「今日も誰かのために生きる」
お金に心を奪われて失ってしまったものはつまりこういうことなのだろうと思います。

ちなみに2009年にECDが書いた家族生活「ホームシック 生活(2~3人分)」(フィルムアート社)も素晴らしい本です。

2012/05/25

能勢仁 / 世界の本屋さん見て歩き


本屋さんをやろうと思っているので当然と言うべきか、本屋さん関連の本を読み漁っている。その中で一風変わった本に出会った。それがこちらの「世界の本屋さん見て歩き(出版メディアパル)」。題名通り著者が世界中の本屋さんを見て歩き、それらの本屋さんについて感想を述べていく。読んでみると分かるのが、これは本屋さんガイドというよりも旅行ガイドに近い。「世界の歩き方」とセットで持ち運びたくなる。


何が面白いかと言うと何よりも著者の文体が非常に読み易く(無駄がなく)、時に冗談とも思えるような語り口調で綴られているので他人の日記を読んでいるような気持ちになってくる。また、書店とは全く関係の無い冒頭かと思えばきちんとお店の内部に入り込んでくる内容に「ふむふむ」と言った感じで読み進められる。まずはきちんとその国の背景を説明する。


例えばこのように。
「ノルウェーの教育制度は小中学校は義務教育で無料である。教科書は有料で年間7~8万円かかるので親の負担になっている。高校は試験がなく入学できる。大学入試は高校の成績のよって入学が許可される。成績不振の学科がある場合には入学できないが、その救済として特別の授業を受けることが出来る」


「ギリシャはヨーロッパ圏であるが、一番アジア寄りの国という見方も出来る。面積は日本の約三分の一(北海道+九州)とそれほど広くはなく、山岳地帯が80%以上もある。総人口は1100万人(内アテネ市に360万人)で、東京都の人口より少ない。言語はギリシャ語であり、文字はギリシャ文字でその難解なことに辟易とした」


「オーストリアは第二次世界大戦の時には中立国として戦争には参加しなかった。そのために戦後は、国連関係の機関が多く置かれる都市となった~首都ウィーンは音楽の都である。日本では毎年、元旦に中継されるニューイヤーコンサートがウィーンの楽友協会から送られてくる映像を見ている人は多い。シュトラウスの華麗なワルツを聴いていると、また行ってみたいと思ってしまう」


「言語はタイ語、文字はインドのサンスクリット文字によく似たタイ文字である。街の中の看板がタイ文字で書かれているので、参ってしまった。まるでチンプンカンプン、だが最近になって英語表記が多くなったというので助かった。しかし英語はホテル以外はほとんど通用しないので、タクシーに乗るときは要注意である。時差は2時間なので時差ボケの心配はない。人口の約90%が仏教徒であるから、国民性は穏やかで優しい」


こんな感じで35カ国、202書店が案内されている。時差の話が出てくるのはタイだけだった。書店の名前はほとんど頭に入らなかった。それよりもその国の出版事情がよく理解出来た。出版社直営の書店が世界には多い。ヨーロッパに始まり、後半はアジアに入るのだが、後半の方が熱を帯びている気がする。国ごとのページ数も多くなっている。経済発展と同じように書店の未来を想像出来たのかも知れない。
ちなみに僕が一番驚いたのはこのセンテンスだった。
「世界中の書店で、書籍と雑誌を一緒に販売しているのは日本だけである。」
イタリアのページより。
ちなみに本屋ガイドみたいな本は数多あるが、書店の写真や店主のインタビューものが大半を占めているので日本の地方都市ごとの考察、書店の紹介をまとめた本はあまり無いので日本版も是非書いて頂きたい。
ブログもすっかり文体の影響を受けている。。

2012/05/11

カズオ・イシグロ / わたしを離さないで


大好きな小説家カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」を読み返してみました。
本当に不思議な小説です。ふと突然にあの物語は何の話だったのだろうと考える事があります。恐らく頭の中に「わからない」がずっと残っているんですね。こういった小説は何度も読み返してみたくなるもの。僕が好きになる小説の要因の一つだと思います。

初めて読んだとき、およそ1/3を読むまで一体これは何の話をしているのか、ここに出てくる人々は何者なのか、想像力を働かせながら読みました。読書をする時間が変えがたく貴重な時間に思えました。

「記憶」が小説を書く際の最大のモチーフだとNHKのドキュメンタリー(確かNHK)でイシグロさんは語っていました。実際イシグロさんの小説ほとんど全ては過去を回想する形で綴られています。「わたしたちが孤児だったころ」では「あれは何年前だった」など過去を追想する場面が頻繁に出てきます。時系列を追えなくなるほどに。混乱を多少覚えながらも物語の世界にぐいぐいと引っ張り込んでいくその力に僕は魅了されました。

そしてこの「わたしを離さないで」は現実とは全く世界の住人が現実とは全く切り離された世界について語っているように思えるのですが、最終的には僕が息をしている世界と何ら変わりのないことに気付かされ、悲しみに近いものを覚えました。

私達が「記憶」を元に生きていることは間違いないのですが、それは悲しいことなのか、優しいことなのか、暖かいことなのか、考えさせてくれます。それをこういった驚くような設定でかつ静かに語られる文体に繰り返し僕は魅了されます。読書の喜びそのものです。

ちなみにハヤカワepi文庫から出ている文庫は2冊買ってしまいました。4刷までが松尾たいこさんのイラストで5刷から民野宏之さんのイラストのようです。恐らく、映画化の関係でしょうか。その映画、まだ見ていないんですよね、うーん、見たい。


2012/04/17

高橋源一郎 / 「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

正直に言うと僕は高橋源一郎さんの熱心な読者ではない。「日本文学盛衰史」は大好きだけれど。twitterの熱心なフォロワーと言った方がいいかも知れない。もっと言うと高橋さんがtwitter上で展開している「午前0時の小説ラジオ」のファンだ。だから、「あの日」から発せられる高橋さんの言葉に耳を澄ました。

この本にはタイトル通り、3.11以降の高橋さんの思考が凝縮されている。twitter上の言葉、そして小説や評論、エッセイがまとめられている。twitterのフォロワーとしては、一冊の本に、言葉が活字として印刷される事に喜んだ。twitterは即興だからその時の言葉の熱と冷気がリアルタイムに伝わる。この本にはその時の温度がしっかりと閉じ込められている。開けばいつでもその時の温度が伝わる。心臓の鼓動が高まる。もちろんそれは高橋さんの言葉が生々しく生きているからだと思う。しばらく、恐らく何年も、僕はこの本を読み返すだろう、そんな気がしている。そういった本はなかなか無い。

「正しさ」とはなんだろう。この混沌とした世の中にあって高橋さんは徹底的に考え続ける。安易に「答える事」が求められてきたこの時代に「考える事」だけが反抗の標に思える。全ての物事が二極化していく構造の中で立ち止まり、考える事の大切さ。立ち止まること。それは今を生きる人々が忘れてしまった行為だ。立ち止まり、振り返る事は学びであって恥ずかしい事ではない。それは未来への思考だ。思考を止めるな、考えろ。僕はそんな事をずっと考えていた。高橋さんは考えさせてくれた。

5月1日に高橋さんはこんな言葉を残している。僕は目頭が熱くなるのを抑え切れなかった。
"いまこの場にいない人間は当然ながら、発言することはできない。たとえば、来年、10年後、あるいは50年後に生まれてくる人間は、まだ存在すらしていないが故に、「現在」について何も発言する事は出来ない。だからこそ、いま生きているぼくたちは彼らへの「責任」を負っているのではないだろうか"
重要でシンプルな答えがこの言葉にはあるように思う。

2012/03/31

新美南吉 / ごんぎつね

この本を見つけたとき、子供の頃の優しい記憶が鮮やかに甦った。この物語を僕は母親に読み聞かせて貰っていた。そう、帯に書いてある通り、「母から子へ」という形で。僕は恐らくまだ小学一年生か二年生だったと思う。妹はまだ幼稚園だ。今は駐車場に変わってしまった母の実家の二階で僕、母、妹と川の字に布団を並べ、眠りに付く前に母は「ごんぎつね」の大きな絵本を両手に持ってゆっくりと語ってくれた。一度きりではなかったと思う。二度、三度あったと思う。優しさがすれ違いによって悲劇に変わる物語。ひとりぼっちの悲しさ。悲しさを見つめて生まれる優しさ。世の中にはそういうことがあるんだ、という事を子供ながらに少しだけ理解した記憶がある。

大人になって今読んでみると、母が語ってくれた物語が記憶ではなく記録となって僕の目の前に映し出された。あの三人で並んだ夜の息遣いまで聞こえるようだった。子供の頃恐らく理解出来ていなかった言葉も今では理解出来るからこんなにも鮮やかな情景を写していた物語だったのかと驚いた。児童文学、と謳いながらも菜種、百舌鳥、すすき、萩、六地蔵、位牌、といった親に聞かなければ分からない単語が物語に深みを与えていると思う。

でも、一番驚いたのは母がこの本を読んで涙を流していたことだ。
子供の僕はこの物語の持つ悲しみと現実の持つ悲しみをまだ何も知らなかったから。
僕はただ物語りにでは無く、母親が泣いているのを見て悲しくなった。
あの絵本はどこへ行ったのだろう。
子へ物語を読み聞かせている親は今どのくらいいるのだろう。

2012/03/14

岩明均 / 雪の峠・剣の舞/ヘウレーカ

「ヒストリエ」が今最も新刊が待ち遠しい漫画の一つ。待ち遠しくてたまにこの二冊を読み返す。この二冊を足掛かりにして「ヒストリエ」の構想を進めて行ったのが分かる資料であり、歴史漫画の短編としても凄く楽しめる内容だ。

共に僅かにしか出てこないが歴史上戦の天才とされる人物がそれそれ一人ずつ出てくる。たった一人でローマを相手に戦ったカルタゴの将軍「ハンニバル」と負け知らずの軍神「上杉謙信」だ。時代も違えば国も違う二人をどこまで話の核と考えていたのかは分からない。共に数ページしか出てこないが極めて冷たい目線で描かれている事は間違いないと思う。

感情を表さず(あったとしてもそれは怒りに限られる)、戦に勝つ事のみしか考えぬまたは考えられない人物として。

それを象徴するように「雪の峠」の表紙に描かれている謙信には「顔」がない。

対照的に主人公は感情豊かで人間味の溢れる人物として登場する。彼らは戦を勝ち負けではなく、どうやって終わらせるのか、そして終わった後に何が待っているのかを考えているように思える。そういった考えは「怒り」の向こうにある「優しさ」と「悲しさ」を持った人間にしか成す事が出来ない、と岩明さんは言っているように思う。僕はその「優しさ」と「悲しさ」の目線に心奪われている。

「ヒストリエ」はまだ序盤だがこれからそういった感情が描かれるのが楽しみでならない。
世界中で読まれればいいな、心から思う。

2012/03/02

ル=グウィン/ゲド戦記、平川克美/小商いのすすめ

ずっと前に古本で購入した「ゲド戦記」を最近棚から引っ張り出して、読み終えました。

「ファンタジー」という言葉で括れない奥行きというか底行きのある物語。購入のきっかけはやはりジブリで、映画を観て原作が気になっていたのです。

影との戦い、自分との戦いというのは社会と向き合い、自分と向き合えば向き合う程避けられなくなります。生活も仕事も言うなれば自分との戦いとの連続。ここではその壮大なテーマを空想の壮大な世界で描いています。空想の世界というのは無限の世界ですから、文学の使命とも言えるこの壮大なテーマはそういった世界でないと描き切れない、とファンタジーを書く作家は考えているのかも知れません。

クライマックスへ向けて海上を行くゲドの姿に何度も心が動かされました。

そして、読み進めて行く内に、もう一つ重要なテーマが書かれている事に気付きます。それは「均衡」というもの。実際この言葉が出てきます。この言葉は偶然にも先日読み終えた「平川克美/小商いのすすめ」(ミシマ社)にも頻繁に出てきます。サブタイトルにもなっていますね。これはbalanceという意味で飲み込んでいたのですが正確にはequilibriumになるようで、経済学で使われる言葉のようです。

要するに釣り合った状態(もちろん経済では需要と供給が)を指します。若いゲドは師匠達の戒めを心では納得出来ず、大きな力を使い自らを酷く傷つけてしまいます。その姿は今の日本の姿にも似ています。この「小商いのすすめ」ではその姿をとても丁寧に描き、私たちの進むべき道を示唆しています。若いゲド、そして「小商いのすすめ」の帯に書かれた「日本よ、大人になろう」の文字。この繋がりの発見が読書の喜びであり、学びなんだと私は感動しました。

ちなみにこの「ゲド戦記」が書かれたのは1968年、「小商いのすすめ」は2011年です。

2012/02/29

吉本ばなな / キッチン

昼に焼き飯を食べて、テーブルで一息付きながらコーヒーを飲む。

つまらないテレビを観る気にもならないので、視線を左に移すと本棚で、吉本ばななの「キッチン」が目に留まる。およそ10年ぶりに開いてみる。確か古本屋で買ったものだ。
ストーリーは全く覚えていない。

コーヒーを飲み終えるまで30ページを黙々と読んだ。

孤独に見える生活がふとした出会いで時計のように静かに回りだす。
田辺さんはどんな顔なんだろうと思いながら読む。

奇妙に見える日常だけれど、何でもないことのようにセンテンスが繋がれていく。

引き込まれるなあと思っているとコーヒーが無くなってしまって、本を閉じ、棚へ戻した。
結末は思い出せない。途中で綴じても心地よい余韻が残った。心地よい孤独と言ってもいいかもしれない。